「愛する」ことの本質について

 

 

 

人の数だけ人がいるのに、

言葉の意味はすべての人に共通してたったひとつなのは、なぜなんだろう。

 

池田晶子『14歳からの哲学 考えるための教科書』5  言葉[2]」から)

 

 

ひょっとすると、この“<言葉の意味> に触れる”ことこそが、「愛する」ことの本質なのかもしれません。

 

池田晶子さんは『人間自身 考えることに終わりなく』「生死は平等である」のなかで、

「言葉」「自分」「生死」とは <ひとつの真理の違う側面> と云いましたが、

私はその答えとして、「愛する」ことにおいて第六の視点(サムシング・グレート)を認めています。

 

まず、日常(なに)()()()わす「言葉」ですが、人類が <言葉の意味> を感じることは、

“無意識のうちの <和多志(わたし) への愛”と思うのです。

つまり、“愛を感じる意識”を育むための『Fire the Gridで述べましたとおり、

本来、<宇宙の本質> において“意味は「その存在自身」が創り出すもの”なのに、

(はじ)めから人類に共通して在ると推定される言葉の意味(・・)自体が、

実は創り出す立場の“もの”ではなく、(すべ)てを創った側の立場の

創造主そのもの(インテリジェント・デザイン) に非常に近い存在であることに気付かされるからです。

 

万物の霊長たる人類が、<言葉の意味> において <ひとつ> であることは、

<宇宙の本質> を考えるうえで極めて重要な事実(こと)です。

ここでいう <ひとつ> は <和多志(わたし) と同じ意味で用いているのですが、

和多志(わたし)自ら分かれた(・・・・・・)ことで在る <宇宙の現在(いま) この(とき)

意識の自分(・・・・・)たちが地球として人類として <ひとつ> でありたい、

と強く願う融合意識(=平和への意志)を働かせることは、

“「自分」の <和多志(わたし) への愛”と言えそうです。

 

「生死」を照らす「性」、あるいは「性」から始まる「生死」の場合、

「生死」の本質である「性」としての「愛する」ことは、

確かめ合うことで <(たましい)(ふる)え>(おぼ)える意味(・・)において、

 

「言葉」・・・<言葉の意味(ラブレター) で触れ合うことで感じる歓びも

「自分」・・・ふたり(ふたつの <自分> 同士)が <ひとつ> になることで感じる歓びも

「生死」・・・性交(セックス)で感じる歓びも

 

宇宙の深淵(しんえん)では全く同じものであることに驚かされます。

そして、その背後にある第六の視点(サムシング・グレート)=<和多志(わたし) の存在を人類は否定できないのです。

 

「愛する」ことでつながる <ひとつの真理の違う側面> を認めることは、

“愛を感じる意識”を(はぐく)む精神を(そだ)てていく <人類の決意> にほかなりません。

 

それは、「知識から意識へ」、すなわち「物質世界」から「精神世界」への

“起源意識”の夜明けのための『目覚め』でもあり、

愛を感じる社会の実現を促す意識の到来を示すものです。

 

<宇宙の現在(いま) 二十一世紀に生きる人類の決意のみが、

<人類の明日(あした)>、<地球の明日(あした)>、<宇宙の明日(あした) を創っていく原動力となり()ることを、

知ることから再び(すべ)てが始まるのだ、と強く感じられてならないのです。

 

 

平成192007)年629日 陰暦515日    前 島  修

 

人類の明日(あした) 愛を感じる日々
平成192007)年717

 


広島おさむる会

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